箏・三絃・尺八の常識講座

 【宮田耕八朗プロフィール】 
1938年 東京に生まれる。1955年 尺八を始める。流派に属さず独自の技法を開拓、1962年 村岡実・横山勝也と東京尺八三重奏団を結成。1964年  東京尺八三重奏団が母体となって伝統音楽の発展的継承と新しい日本音楽の創造を目指して日本音楽集団を結成。1973年~ 鶴の巣ごもりその他尺八の小品数曲。1978年 ヨーロッパ公演に際し各国の田園風景に接し日本の減反の状況を憂いて「みずほのうた」尺八・20絃箏二重奏曲を発表。以後「キビタキの森」「矢部の郷」「田毎の月」など農業および生命の讃歌を主題とした作品を数多く発表している。現在 全国的に演奏、教授、講習等を行い、作品も広く愛好されている。

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 (邦楽ジャーナル様で2006年9月から12回連載されたものを纏めて2016年5月に「箏・三絃・尺八の常識講座」として発売されました。当法人では「たより33号」から連載でその続きを書いて頂いております。これから順にすべてを公開致します。  NPOたより編集担当)

 

 

箏・三絃・尺八の常識講座  第1章 女性差別と文化 

***************その1***************

まずは茶音頭の一部分を取り上げてみます。−里は都の未申(ひつじさる)− 里は廓(くるわ)とも書き遊郭(ゆうかく)とも言います。未申とは西南の方角です。今の時計は1日にふた回りしますが昔の日本の時計は1日にひと回りで、今の12時が子(ね)の刻で後は順に丑寅(うし とら)卯(う)辰巳(たつ み)午(うま)未申(ひつじ さる)酉(とり)戌亥(いぬい)と書いてあって真下の6時のところが午の刻で実際は今の12時ですから現在でも「丁度12時」を正午と言いその前後を午前午後と言いますね。この頃見かけなくなりましたがゼンマイ式の時計を修理する時計屋さんは数字が書いてある文字盤の事をエトと言っていました。それで時計の文字盤を平らにして、12時(子)を北向きに置くと6時(午)は南。地図上の縦線を子午線(しごせん)と言います。3時 卯(う) は東、9時 酉(とり)は西。未申(ひつじ さる)が西南です。

そして京都の遊郭があった島原は都の未申(ひつじさる)です。未申は丑寅(うしとら)の鬼門(きもん)に対して裏鬼門(うらきもん)で、いずれも鬼が出入りすると言って忌み嫌われた方角なのです。江戸初期の吉原は日本橋人形町にあって明暦(めいれき)の大火(1657年5月)別名振袖(ふりそで)火事の後浅草浅草寺(せんそうじ)の裏手あたりに新吉原として再建。いずれも江戸の丑寅で鬼門にあたります。京都宇治は都の辰巳(たつ み)(東南)にあたり、これは吉方と言われ戌亥(いぬ い)(西北)も吉方です。都の西北早稲田の森に……という早稲田大学校歌はきっと戌亥の吉方を意識しているのでしょうね。

 ところで吉方の辰巳は(そん)と書き戌亥は(けん)と書いて苗字に使われています。これは易で言う八卦(ハッケ又はハッカ)つまり乾(けん) 兌離(だり) 震(しん) 巽(そん) 坎(かん) 艮(ごん) 坤(こん)を八方に擬えると北から時計回りに 坎(かん) 艮(ごん) 震(しん) 巽(そん) 離(り) 坤(こん) 兌(だ) 乾(けん) となり、吉方の巽(たつみ)と乾(いぬい)は苗字に使われ、鬼門の艮(うしとら)と坤(ひつじさる)を使う人は居ません。が、昔の国、領土の東北に艮(うしとら)神社を建てて鬼門除けにしている場合もあります。

さて、遊郭を鬼門に配するとは何故かと言うと、それは蔑視しているからです。

しからば何故ちょっと気取っている茶音頭に遊郭やカコイと言うも……

が出てくるのでしょう? いやその他の地歌にも歌舞伎にも当たり前のように遊郭が登場しています。これが江戸の文化なのです。アメリカ映画にストリートガールやコールガールが登場する場合はとても文化とは思えないし、第二次大戦中の戦場後方に配備された慰安所や戦後の映画に出てくる売春婦も文化とは程遠い悲惨な話です。平清盛の寵愛を受け、そして捨てられた祇(ぎ)王(おう)と祇(ぎ)女(じょ)、義経の愛人靜(しずか)などは白(しら)拍子(びょうし)という春を鬻(ひさ)ぐ女性で、未だ遊郭という営業体制ではありませんでした。泰平の江戸になると急速に遊郭ができ、芸や知識を磨いて、地位の高い客に対応できる花魁(おいらん)などと、奴隷的身分には変わりないけれども格式とか階級ができてきました。

***************その2***************

 1732年に大阪竹本座で初演された檀(だん)浦(のうら)兜(かぶと)軍記(ぐんき)は「阿(あ)古屋(こや)の琴責(ことぜ)め」が有名です。

壇ノ浦の源平合戦(1185)の後、平家の侍大将景(かげ)清(きよ)が源氏への報復を企てているとして、その愛人で花魁の阿古屋を捕まえて景清の行方を吐かせようとする話ですが、阿古屋が箏・三絃・胡弓を見事に弾き歌い芸術家として、また操を守る立派な女性として描かれ、剛勇の武者畠山重忠が教養と情けのある文化人になっています。 

源平合戦の頃は未だ箏は普及していなかったし遊郭も花魁も存在しなかったし、三絃が大阪に入ったのは信長の頃ですし、阿古屋が替歌して歌った菜(ふ)蕗(き)組(ぐみ)は八橋検校(1614年~1685)の作品ですから、この芝居は史実とは関係なく出来上がっています。このように江戸時代には遊郭と文化とが結び付き私たちには想像できない感覚で繋がっていました。娘を泣き泣き遊郭に売る農村が身近にあり、悲しさ惨めさと華やかさが身近にあった江戸の音楽や芝居を演じるには、今の常識とは違う常識を理解する必要があるようです。

***************その3**************

遊郭と花魁と芝居について述べましたが、更に私たちに身近な地歌とのかかわりを見てみましょう。地歌の題材に遊女の儚い身の上を歌ったものがかなりあるのはご存知ですね。でも実際アーとかウーとか歌っていて意味不明で、もう全然身近じゃないという方も多くなったと思いますけど、ちょっとお付き合いください。芝居では華やかな花魁が見栄えがしますが地歌は地味です。時代劇でみるような格子の中から必死に客を招き入れようとする女郎や、もう遊郭からはお祓い箱になった夜鷹などを想像してください。貧農の娘が口減らしに売られ、売る親も売られた娘も悲惨な生涯を送ります。武士は殿様にへつらい、上役にへつらい、殿様は将軍にへつらい、商人は客にへつらい番頭は主人にへつらい小僧を小突き回す。そんな上下の厳しい世の人々が自分より悲惨な人々を見下して安堵し身近にも思える。地歌の作曲者は盲人で、そこにも階級がありますし師匠と言われ、その頂点に立ってさえ差別からは逃れられないのでした。 

 楫枕という涙無しには聞けない地歌の極致とも言える作品は、遊女の儚い身の上を小舟に揺られるような身に例えた・・・という説明もありますが、それより実際に小舟を宿とする「ふなまんじゅう」と言う最低の遊女を思い浮かべると歌詞と曲調が合点がいきます。歌の節は流派によって随分変化していて元の節はどんなだったのか見当もつかなくなっていますが、それでも流石に名曲で残っているところは残っています。「流れわたりに浮かれて暮らす」―面白おかしく浮かれているわけではないけれど浮いて漂う惨めな我が身を捨てばちに「浮かれて―」と哀れに叫び「エーエ」とため息をつく絶妙な節付けが、現在はどうも理解して歌われていないようですけど形としては残っています。

そして男女の結びつき、結婚を立場や親が決める事が当たり前だった時代に、世の底辺に生きた女と、それを買うのがこれまた生涯所帯を持つことの叶わない底辺に生きた男とが身を寄せ暖め合い「岸の上の松の根方に結びとめてや」と叶わぬ夢を歌うのが楫枕です。

***************その4***************

地歌は花鳥風月やその他さまざまです。が、今は遊女と江戸の文化の話。

吾妻獅子は東(あづま)下りの色男在原業平(ありわらのなりひら)を真似て江戸へ行き吉原で遊んだ話です。言うまでもなく業平(825880)の頃は江戸の街も吉原もありませんが、「華やかに乱れ乱れる妹背の道も」なんて、オイオイ人前でそんな声出すな! と言いたくなるような歌ですし、地歌では無いけど五段砧は箏二重奏の名曲で、あの時代の通例で地歌っぽく前歌がついています。でも現在は殆ど省略し箏二重奏だけで演奏されますが、その歌詞は当時評判の遊女、吉野、高尾、外山、常盤の名を巧みに歌い込んでいます。今で言うアイドルなんでしょうかねぇ。

  如何に華やかな花魁でも囲いから出ることは許されない売春婦ですし、最下層の泥水啜って生きている遊女も、野垂れ死ぬまでその境遇から這い上がることは夢のまた夢。その悲惨な女たちと、それを買いに行く男たちが芝居にも地歌にも多くの部分を占めている江戸の文化とは何なのでしょう?

  江戸の庶民にとっては、虐げられた立場の人々と自分たちとの距離がそれほど離れていると思っていなかったのではないでしょうか。わずかな違いで自分も自分の身内もその立場になるかもしれないのですから。

  弱い立場の女性を賎しいと思う、いや、そもそも女性を賎しいと思うのは支配者の考え方です。女性だけではなく支配される庶民を賎しい民と思います。そう思わなければ支配者の立場がありません。そして庶民はシンデレラが王子様を待つように支配者を羨みあこがれます。庶民はふてくされながらも、ついつい、上を見習って支配者の考え方が時間をかけて庶民の頭にジワジワと流れ込んでいきます。

  今でも「おんなのくせに」「女子供のでる幕では…」いやもっと凄いのは軟弱な又は陰険な男に対して「女の腐ったような」という言葉を女性でもつい口にするということは女性蔑視が男女ともに身についている証なのです。

 「元始、女は太陽であった」(平塚らいてう)というのに奴隷制封建制以来、支配層の女性蔑視は世界中に普及し、そして20世紀から21世紀にかけて世界的に意識の変革が進んできたのですが、男女平等ランキング2020で世界の153か国中なんと日本は121位ですって。まだ下に32か国あるあるぞ! なんて威張れませんよ。

世界中に数え切れない理解できない差別がまだまだありますが、今はそこには突っ込まないで、江戸の文化と現代に繋がる女性に対する意識について考えてみました。

***************その5***************

第2章 旧暦の5月28日はほぼ闇夜だった

2022年の6月26日は旧暦5月28日で、1193年のこの日、富士山麓で源頼朝の巻狩りに随行した工藤祐経を曽我兄弟が夜襲して敵討ちを果たし、兄はその場で警護の武士たちに討たれ、弟は捕らえられて翌日斬首されました。この話は後々三大仇討ちのひとつとして能や浄瑠璃、歌舞伎などで広く世に知られました。三大仇討ちとは曽我兄弟と1634年伊賀上野鍵屋の辻、1702年1214日赤穂浪士。これらの話が何度も芝居になりTVドラマになっているということは、仇討ちとは極く稀だったのです。曽我兄弟が討ち入りの時カサを燃やして松明の代わりにしたことに因んで、兄弟所縁の地では旧暦5月28日に傘焼きの行事が行われるそうです。兄弟が燃やしたカサとは未だ雨傘が普及してなかった筈ですから笠だったでしょうが、近年の傘焼きは古い蛇の目傘でしょうね。

***************その6***************

 大昔の暦(こよみ)は、月の満ち欠けで1ヶ月、太陽の周期で1年、この両方の辻褄を合わせた太陰太陽暦でした。この辻褄合わせがむずかしくて度々調整しなおしたようです。ヨーロッパでは紀元前46年にローマのユリウス・カエサル(英語ではジュリアス・シーザー)が制定したユリウス暦を1582年(信長の没年です)、ローマ教皇グレゴリウス13世の時に10月4日の翌日を15日とし現在の太陽暦に改め、これをグレゴリウス暦と言います。

日本では1872年(明治5年、吉沢検校の没年です)12月2日の翌日を1873年の元日とし太陽暦(新暦)となりました。

 旧暦ではツイタチの夜は月の無い闇夜です。フツカは日没の後、西の空の低いところに下側だけ細く光った月が出て1時間もせずに沈んでしまいます。ミッカはフツカの月より少しだけ太い三日月で1〜2時間で沈みます。ヨッカ、イツカ…と西の空に現れる位置が少しずつ高くなって太くなって西に沈むまでの時間が少しずつのびてきます。

ナノカの月は日没の時、真南の空に右半月(アルファベットのD)が浮かんで西に傾きつつ真夜中に沈みます。このナノカ月が沈む頃にはDの字が右に傾き舟のように見えて行きます。またこの月は弓の弦(つる)が上側になったようにも見え上弦の月とも言います。旧暦7月7日の深夜、織姫はこの舟に乗って天の川を渡って彦星に会いに行きます。

 8日9日10日…と日没とともに月の出は中天から東へ移り、月の左側もふくらんで日ごとに丸くなり、沈む時刻は朝に近づきます。

そして十五夜(時には十六夜)は日没と丁度入れかわりに東から満月がのぼります。ひと晩中出ている月は満月だけですし、三日月が中天にかかることも無いのです。

十六夜は満月と丸さはそう違わないけれど、日没より出遅れるのでイザヨイと言われます。17日18日とだんだん遅れて東からのぼり、月の右側がやせて西の端まで行かないうちに夜明けを迎えます。このように月の出は毎夜約49分ずつ遅れます。

二十三夜頃には左半月(Dの裏がえし)が真夜中に東から現れ、中天にかかる頃夜明けを迎えて、月は中天に居ながら陽の光にのみ込まれます(下弦の月)。

 曽我兄弟の28夜の月は、明け方近くに東の低い空に左下だけ光った丁度三日月の裏がえしのような月が現われますが間もなく陽の光にのみ込まれます。ですから日没から夜明け近くまで真っ暗だったのです。

 月の満ち欠けの周期は29日半(正確には29日と12時間44分)ですから15日か16日が満月。ひと月を大の月30日、小の月29日の交互にしますと12ヵ月で354日ですから太陽の周期の1年に足りません。ですから辻褄合わせの為に3年に一度くらい閏月(うるうづき)を入れます。

たしか2020年の旧暦4月の次にもう一度閏4月があったと思います。

つまり2020年の旧暦は13ヵ月ありました。2021年2月12日が旧正月で2022年2月1日が次の元日ですのでその間354日です。

 太陽暦で暮らしている私たちは、今夜の月は何時頃どの辺に出るのかしら、丸いのか細いのか全然気にしていませんが、今よりずっと明かりが少なくて街灯も無かった頃の人々は、日にちと月の様子を常識として知っていました。

***************その7**************

さて、これまでは地上から太陽と月を見た昔の人の常識の話でしたが、今度は視点をかえて現代人の常識の話にうつります。

 太陽と地球と月を北極のずーっと上から見ると、地球は反時計回り(左回り)にコマの様に自転しながら太陽のまわりをやはり左回りに1年かけてひとまわりし、月は地球のまわりを地球に同じ面を見せたまま29日半でひとまわりします。月はハンマー投げの球のように地球から引力という鎖につながって回り、太古の昔から人間は月のこちら側の面だけ見ていて、向こう側(裏側と言っています)を見た人は居ません。

 月の周期が約29.5日ということは毎夜月を観測しつづければ分かることですが、地球が太陽のまわり9億4千万キロをひとめぐりしても、元の所に旗が立ってるわけでもないのに1年が365日と6時間弱だということは、どうすれば分かるのでしょう。

 大分県国東(くにさき)半島の両子山(ふたごやま)に居た三浦梅園(みうらばいえん)(1723年〜1789年)という哲学者は幼少期に、家の南面の縁側にうつる軒先の影を縁側の板に爪でしるしをつけ、日に日に位置が変化し、縁側の奥深くまで陽が射す冬至と浅い夏至とーーー。これはどうしてなのかと大人たちに聞いて困らせたそうです。

 地球は1億5千万キロかなたの太陽のまわりを1年かけて廻ります。

その直径3億キロの円をテーブルのような面として見ると地球の北極と南極を貫く自転軸はテーブル面と23度27分傾いています。ですから地球儀は傾いて設置してあります。

 円テーブルの手前の端に地球儀をテーブル中心に向かっておじぎをした形に置き、地球儀の台座の向きを変えずに大きく反時計まわりにすべらせてひとまわりさせます。例えば将棋の駒を盤上にひとつ置いて指でおさえて、駒の向きを変えずにすべらせて大きく左まわりに円を画いた形です。

 駒(地球儀)を手前に置いた時、地球の北半球がテーブル中心の太陽に多く照らされるので夏。そして南半球は冬。駒をすべらせてテーブルの向こうの端に置くと太陽からは南半球の方が太陽に多く照らされて夏。そして北半球が冬となります。

 この様に地軸の傾きのおかげで日差しが変化するので、四季が生まれ、縁側に爪でしるしをつける方法よりもう少し精密に計ることで1年という長さが分かりました。

地軸の傾きがもし無かったら1年という概念が生まれず、別な方法で地球が太陽をひと周りする日数を知り得ることがずい分遅れたというか数学・科学の発展がずーっと遅れたことでしょう。

***************その8**************

   太陽を中心とした直径3億キロメートルの円をまわる地球。その地球をまわる月は地球から遠い時は40万7千キロメートル、近いときは35万6千メートルという楕円を画いています。そして巨大な円の面とその端の小さい楕円の面がほぼ重なります。ですから地球から見て太陽と月との通り道があまり違わなくて日の出日の入りと月の出入りも同じ様に東と西です。

 太陽から見ると月が地球の向こう側に居るときは地球から見える月と同じ表が見え、月が地球の手前に居るときは地球から見えない月の裏が見えます。そしてほぼ真っすぐ向こう側の時には月の表の全面が日に照らされて満月となり、地球の手前でほぼ真っすぐだと地球からは月が太陽のすぐそばなので見ることができません。つまり朔(さく・ついたち)です。ところがこのほぼ重なっている軌道がたまにちゃんと重なると満月の時に月食となり朔のときには日食となります。しかも月が地球から遠い時の日食は月が小さいので金環食、月が近い場合は月が大きいので皆既食となります。月食は地球の影が大きいので皆既食になりやすいけれど、ずれていれば部分食です。

  大分県杵築(きつき)の綾部妥彰(あやべやすあき)(1734年〜1799年 後に麻田剛立(あさだごうりゅう))は1763年旧暦9月1日の日食を事前に発表し、これは幕府天文方(てんもんかた)の暦にも無かったので有名になりました。そして後に杵築藩の典医として招かれますが宮仕えが嫌で脱藩して名前も麻田剛立と変えて大阪へのがれ、塾を開き逸材を育てました。1778年に1786年の日食を三浦梅園に手紙で知らせ、月面観測図を併記しました。月面のクレーターにアサダの名を残しています。その後幕府の天文方に招かれますが、またも宮仕えが嫌で門下生の高橋至時(たかはしよしとき)(1764年〜1804年)間重富(はざましげとみ)(1725年〜1816年)の二人を推挙(1795年)しました。仕官嫌いと言えば三浦梅園もその智力を求める大名が多かったが、やんわりと断って生涯宮仕えはしませんでした。

***************その9**************

      千葉県佐倉の伊能忠敬(いのうただたか)(1745年〜1818年)は49才で隠居してから江戸に行き、天文方になったばかりの高橋至時に入門。18年にわたって全国を測量し日本地図を作ったことは広く知られています。しかも測量の度の費用も当初は私財をつかってのことでした。

 師の至時が亡くなった後も、天文方を継いだ至時の息子景保(かげやす)(1784年〜1829年)の指導の下で測量を続け1818年73才で没し、門弟たちにより1821年に日本地図が完成。その後シーボルトが江戸に来て景保と会い、景保は学問の友という親しみで日本地図小図の写しをシーボルトにプレゼント。1828年にシーボルトが帰国の際暴風で舟が座礁したため積荷から地図が発覚。景保は国禁を犯したとして捕えられ1829年2月に獄死。亡骸を塩漬けにして翌年の3月に死刑判決を受け、更に家族や関係者40人余りが処罰されました。ところがその割には幕府は伊能忠敬労作の地図をほったらかしにして役立てなかったのです。

 さて、地球のまわりをまわっている月の軌跡は実は円でなく波線なのです。太陽を中心とした9億4千万キロの軌道を1年でまわる地球が1ヵ月に8千万キロ近く移動しますから、その1ヵ月に地球をひとまわりする月の軌跡はS字を細長くしたものなのです。で、これは太陽を固定しての話で、実は太陽も宇宙のどこかを中心にしてすごい速さで動いているそうですから地球の軌跡も円ではなく波線を画いています。そして太陽の軌跡はーーー?この先は私の常識を越えていますので闇夜から始まったこの話はまた闇の中へーーー。